この人なしに韮山城は語れず、であります。以下の歴史が頭に入らずとも(笑)北条早雲がここに住んでいたんだと思うだけでもドキドキしませんか?
興味ある方は続きをどうぞ。
北条早雲の出身地には諸説あるが、現在は「備中高越山城主伊勢盛定の子で、室町幕府申次衆に加えられている伊勢新九郎盛時がその前身」という説が有力のようです。
北条早雲の名で通っていますが、生前は伊勢新九郎長氏、早雲庵宗瑞と名乗っていました。
今川家内紛を治めた功績により、1487年興国寺城主(駿河国、現沼津市)に。
1491年掘越公方、足利政知の死後、その相続争いにより伊豆国は混乱状態に陥ってしまいます。
その混乱に乗じて早雲は掘越御所に攻め入り、足利茶々丸を滅ぼし伊豆国を平定。
韮山城を根拠地としました。
ここから箱根へと進み、後に小田原城を奪取することになります。
韮山城は関東攻略の戦略上の要地として、北条氏が小田原城を拠点とした後も非常に重要視されました。
1519年早雲は韮山城で88歳の生涯を終えます。
法名「早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門」の天岳は韮山城背後の天狗岳に由来するといわれています。
それほどまでに韮山を大事にしたのですね。
最も大きな合戦であり、北条氏がこの城を去ることになったのが豊臣秀吉の小田原攻めです。
関東で勢力を広げる北条氏は天下統一をはかる秀吉と対立。
1590年3月27日ついに秀吉による小田原攻略が始まります。
秀吉は徳川家康と沼津三枚橋城にて、敵地視察を行い、織田信雄等に韮山城を、羽柴秀次等に箱根山中城を攻めさせ、小田原城には徳川家康を先鋒として向かわせました。
同年3月29日、わずか2時間で山中城は陥落。
しかし韮山城は前面に内堀は人工、外堀は自然の沼田の二重の堀をめぐらし、南に天狗峰を背負い、西には狩野川が流れ、本丸を最も高い位置に構える(図参照)堅固な城であったため、なかなか落ちませんでした。
このとき、豊臣の軍が4万4千人であるのに対し、北条の軍はわずか3640人。
数では圧勝のはずが城の守りが強固だったため、豊臣軍は長期にわたる持久戦へと持ち込むこととなったのです。
秀吉の命令により家康の使者が城中に送られ和議をすすめ、韮山城主北条氏規も長期の篭城は不利と考え自ら小田原に赴き、氏政・氏直親子に和議に応じるよう求めました。
それにより同年7月5日、小田原城は開城、北条政と氏照等は切腹、北条氏規は河内国に移されたのです。
韮山城は家康の家臣、内藤信成が城主となりました。
のちの慶長5年(1600年)、信成の子信正が駿府へ移封されたため、韮山城は廃城となったのです。